流氷のない海

19983文字

過去にアズジェイゲスト本『深海の円舞曲』に寄稿させていただいた文章の再録です。 卒業後の進路についての話。

「卒業後のことなんですが、僕、薔薇の王国に行こうかと考えているんです」

 そう告げられたのは、なんでもない陸の冬のことだった。

   ◇

 冬だというのに、オクタヴィネル寮の外海に流氷が来ることはない。近いようでいて寮内から隔絶されたそこは、いつだって同じ珊瑚が揺れていて、いつだって同じ魚が泳いでいる。故郷の海とはまるで違う。故郷には今、分厚い流氷が視界いっぱいを覆っていることだろうな、とアズールは思う。
 陸の冬は海の冬とは全然違うけれど、アズールはそれを気に入っていた。陸の冬はどうしようもなく鮮烈に自分の輪郭をくっきりとさせる。自分がひとつの個体であることを、自分が実はひとりきりであることを、体温と隔絶しきった外気温によって自覚させる。海の中の、海水と溶け合ってしまうかのような感覚とは全くの別物で、その陸の感覚をアズールは気に入っていた。世界に自分はひとりぼっちだ。ジェイドやフロイドがどう言うかは知らないけれど。
 ウィンターホリデーを迎えたオクタヴィネル寮には、アズールたち三人以外は誰もいない。同じ顔に囲まれて過ごすホリデーも半ばを過ぎた、そのとある真夜中のこと、アズールはVIPルームから這い出て、モストロ・ラウンジのドアに手をかけた。双子がいるだろうかという半ば確信に近い予想のもと、開けた扉の先には一人分の影しかなくて、――代わりに、かなり濃厚な匂いが立ち込めていた。
「……ジェイド。何を食べているんですか」
「おや、アズール。ただの夜食ですよ。小腹が空きまして」
 ジェイドは大食らいの量のクリームパスタを前に微笑む。ジェイドの作るクリームパスタはとんでもなくおいしいけれど、やけに嗅ぎ慣れない香りがすると思ったら、得体の知れないキノコがごろごろと入っていた。フロイドがいないわけである。この深夜にとんでもなくおいしそうなものを食べている男に、無性に八つ当たりでもしたくなっていたけれど、キノコのおかげで食欲の衝動が一気に削がれた。備品の確認をしようと思っていたのに、その気も削がれて、――はあ、と大きなため息をつくと、おやおや、と今度は苦笑して紅茶を勧めてきたものだから、一息つくことにした。
 ことり、と一口つけたカップをソーサーに置く。大食らいの量のクリームパスタが、流れるように食されていくさまを眺める。ジェイドの食べっぷりを見るのが、アズールは実は好きだった。その物騒な口に、渦のように全てが飲み込まれていくのを見ていると、何故か考え事が一緒に食べられていくような気分になる。
 ジェイドの音と、アズールの音だけが響く。いつだって変わることのない海が視界に映っている。総じて穏やかな時間だった。ホリデーには、たまにこんな、嵐の切れ間のような時が訪れる。
 ジェイドがカトラリーを置いた音が聞こえて、その音でふと我に返った。目の前の紅茶はまだ半分以上残っていて、――アズール、と呼ばれた。穏やかな声音だった。
「卒業後のことなんですが、僕、薔薇の王国に行こうかと考えているんです」
 ――流氷で頭を打たれたようだった。それは唐突な宣言だった。いや、時期としてはなにも唐突ではないのかもしれない、もうそろそろ3年の冬も明けるのだから。大多数の生徒は、4年時の実習計画と具体的な将来について、そろそろ真面目に考えだすころだ。だから何も驚くようなことではないのかもしれなかったけれど、ジェイドのそれは、アズールにとっては予想外でしかなかった。だって、ジェイドは全く、将来のことを考えているそぶりなんて見せなかったのだ。
「アズールもご存じでしょうが、薔薇の王国は、植物の研究が進んでいることで有名でしょう? 特に作物の品種改良や、野生種の人工栽培が最近は盛んで……さらには、薔薇の王国でしか発見されていないキノコも多数あるそうなんです。以前の研究発表会で、そちらの研究をしている方に声をかけられまして。……アズール、どう思われますか?」
 どう思うか、なんて、そんなもの。
「……いいんじゃありませんか? お前の計画に、僕が口を挟むものでもないでしょう」
 その返答に、ジェイドはそうですか、と眉を下げて笑った。いつもの読めない微笑みだ。
「それなら、よかったです。ところでアズール、ホリデー明けの企画の件ですが――」
 その表情に何か引っかかりを覚える前に、ジェイドが出した別の話題にアズールの思考は吸い寄せられた。分かりやすい商売の話は、いつだってアズールの好むところだ。そのまま二人でホリデー明けの施策についてあれこれと検討を重ねるうちに、さらに夜は深まり、ラウンジをのぞきにきたフロイドに回収されて、三人で自室に戻った。
 ――だから、それでジェイドの進路の話は終わり。終わったはずだった。

 終わったはずだったのに。
 その言葉が事実上の別れを告げるものだと、ようやく頭で理解したのは就寝前のことだった。
 (ひょっとして、僕とは別の道を選ぶって、ことか)
 眠りの淵に落ちかけたとき、ふとあの宣言を思い出した。途端に目が冴えて、――こうなるともうだめだった。アズールの脳内には先ほどのジェイドの言葉がぐるぐると回って、疲れ切って休むばかりだったはずの脳は極限まで冴えて、もう眠れるはずなどなかった。
 (僕より面白いものを見つけたって、ことか。それがまさか、キノコ?)
 あのとき冷静に受け止めたはずの言葉は、今になってアズールの脳内をかき乱してくる。夜にこういうことを考えると、ろくな思考を生まないのに、とアズールは苛立たしく思う。現に今、アズールの思考はろくな形をしていない。思考が渦となってアズールを飲み込んで、どこかあらぬところへと流されていくよう。
 ジェイドが、別の進路に行く。
 ということは、アズールのモストロ・ラウンジの展開計画からジェイドは手を離すのだろう。あんなにニコニコと話に乗っていたくせに。さっきだってホリデー明けの施策についていろいろと話し合ったくせに。いや、別に、あいつはそういうやつだ。それに別に、そのことについて合意は取っていなかったのだし――。
 『アズール』
 ジェイドの声が耳の中にこだまする。寝台のどれほど深くに引きこもろうが、どこまでもどこまでもその声は追ってくる。
 その日は結局、眠りにつくことはできなかった。

   ◇

「アズール、どしたの。目、やばいよ」

 起きたくない。
 厳密には、ジェイドと顔を合わせたくない。
 そう思いつつ重たい体を引きずって出た朝食の席には、フロイドしかいなかった。これジェイドがつくってったやつ、とフロイドはおいしそうなパニーニを指す。具材は生ハムとズッキーニとモッツアレラチーズ、ご丁寧に透き通ったスープまで添えられている。フロイドがぱくついているので特に怪しいものは入っていないだろう、と判断したアズールは手を伸ばした。普段とさほど変わらない量のはずなのに、今日はやけにずっしりと重く感じられる。
「……別に、なんでもありません。それよりジェイドは」
「ジェイドなら、今日は朝早くに植物園に行くって出てったけど。朝のキノコの観察がどうとかで」
「……はあ。そうですか」
 キノコか。そう思って、はあ、と漏らした息は、思っていたよりもやけに大きくラウンジに響いた。フロイドが目ざとく気にして、アズールをまっすぐ見つめる。
「なに、口喧嘩でもしたの? またジェイドが余計なことでも言った? でも昨日は別に普通だったよね」
「……別に、喧嘩とかをしたわけではありません」
 適当に言い繕って、アズールはフロイドを見据えた。ジェイドが同じ道を行かないことが判明した今、このウツボの将来計画も確かめておかねばなるまい。
「ところでフロイド、お前は進路について、何か計画はあるんですか」
「俺の進路? どしたのアズール、急に」
「いいから教えなさい。お前、将来はどうするんです」
「どうするって……特に考えてないけど」
 フロイドは頭をこてんとかしげた。ジェイドとお揃いのピアスが揺れる。きょうは朝から調子がいいらしく、既にパニーニは8割方食べられている。
「アズールについてく、じゃだめなの?」
「…………」
 じんわりと五臓六腑に染み渡る言葉だった。なにせジェイドにバッサリ切られた後なので。そして、その言葉にほっとした自分が、とてつもなくよくない橋を渡っているような気もした。
「なに、どーしたの。ジェイドはなんか言っていたの?」
「…………ジェイドは、薔薇の王国に行きたいと」
 さすがに察しがいい。こちらを射貫く瞳に押されて、アズールは端的に告げた。ジェイドの将来計画はフロイドも知らなかったようで、瞳孔が大きく見開かれる。
「薔薇の王国!? え、キノコのために!? げえ……へええ〜……まあ、ジェイドがそうしたいならそうすればいいと思うけど」
「……止めないんですね」
 ふとこぼれでた言葉で、アズールは自分の願望を自覚した。フロイドに話したのは、話しておかないと後々面倒くさそうだからだけではない、フロイドにジェイドの計画を止めてほしかったのかもしれない。なに、止めてほしかったの、と漏らされたフロイドの言葉はそれを率直に言い当てていて、――ただしこの感情はなんとなく認めがたかったので、話を逸らす。
「もっと嫌がるかと思いました」
「確かに俺はキノコとかは嫌いだけど、別の国に行くっていうならキノコを俺の部屋に持ち込むこともないわけじゃん」
「そこなのか」
「それにジェイドなら、無理な計画じゃないんだろうし」
「……まあ、そうですね」
 なんとはなしにフロイドを見やる。ジェイドとよく似ている。よく似ているようであまり似ていなくて、それでもよく似ているのだ。そして、この双子はいつも一緒だったのに。
「お前たち、長い間離れていたことってあるんですか?」
「……ないなあ。そだね、そうなるとちょっと変かも。ジェイドがずっといないの、さびしいかもね。まだよく分かんないけど」
 フロイドはぐっと背伸びをして、なんてこともないように告げる。アズールよりボリュームのあったパニーニは、既に綺麗に平らげられてしまっていた。アズールはじっと、進まない自分の分を見つめる。そこにフロイドが爆弾を落とす。
「薔薇の王国かあ。いいね。俺も、気が向いたらどっかいくかも、アズール」
「…………はあ。そうですか」
 そう。こういうやつらだった。ウツボはこういうやつらなのだ。何故かちょっと動揺してしまった自分が愚かだった。そもそもこのウツボ二人を、自分の将来計画に確定要素として組み込んではならないのである。つい顔を険しくさせてしまったからか、フロイドがこちらをのぞきこんでくる。
「なに、アズールもさびしーの」
「はあ!? 違う」
「さびしいわけじゃないなら、なんなの」
「…………さびしいとかでは、ありません。ジェイドがいなくなるなら、僕の将来計画の見直しが必要になると思っただけです」
「え〜?」
 フロイドは目を細めて、頭をさらに傾けた。そのままぽすんと、ソファにもたれかかる。
「アズールそれ、ジェイドの前では言わないほうがいいよ。余計にこじれるから」
 そのうちいなくなる男とこじれるもなにもないだろうとは思ったが、別にこの場で反論するほどのことでもないので言わないでおいた。
 それにしても。この胸にぽっかり空いたような、どこかをちくちくと刺されているかのような感覚は。これは、さびしい、なのだろうか。本当にそうなのだろうか。自分だけがこの、よく分からなくてもやもやする、どうしようもなく苛立たしいものを味わっているのだろうか。それはかなり、腹が立つような。それとも、もしかして、ジェイドも同じような感覚を。
 よく分からない思考に押し出されて、ぽんと言葉は飛び出した。
「ジェイドは、さびしくないんでしょうか」
「え〜、ジェイドの考えてることなんて俺が分かるわけねえじゃん。ジェイドに聞いてよ」
 フロイドには、そう軽くいなされてしまったのだが。

   ◇

 朝食を終えたところで、アズールはVIPルームに引き上げた。とある依頼達成のための計画を練る必要があったからだが、アズールの脳内はジェイドのことで渦巻いていて、全く使い物にならない。そのことにうんざりして、ペンを机に投げ出した。
 ジェイドが卒業後は薔薇の王国に行く、そのことに何のショックを受ける必要があるのだろう、とアズールは自問する。
 ジェイドにはジェイドの人生があって、ジェイドにはジェイドの選択がある。腹立たしいことに、アズールが面白いかそうでないかを判定するのはあちら側だ。
 そう、ジェイドが卒業後もアズールと一緒にいる保証なんて、最初からあってなかったかのようなもので、――と考えたところで、ぐわんとショックを受けた。ショックを受けている自分自身にも、背筋がぞくりと冷えた。
 そう、ジェイドが将来も一緒にいる保証なんて、元々どこにもなかったのに。
 (僕はいつのまに、ジェイドは一緒に来ると、当たり前のように思っていたのだろう)
 いつのまにこんなにも自分の奥深くまで、このウツボは進入してきていたのだろう、とアズールは愕然とした。いつのまにこのウツボは、ふと身の内から欠けてしまったときにこちら側まで傷ついてしまうような、そんな恐ろしい存在になったのだろう。何がそうさせたのだろう。ああ誰にもそうさせたくなかったはずなのにと思って、
 (……あいつ、ずっと僕の隣にいたいって言ったくせに)
 八つ当たりのようにあふれ出た感情に、再度驚きつつ――今日はそんな感情ばかりで、自分にも裏切られてばかりだ――、それでもその感情は深い納得をもってアズールのうちに響いた。
 『アズール』
 あのジェイドの、厄介な声が耳奥でこだまする。
 『僕はいつまでも、貴方の一番隣にいたいんです。貴方の隣で、貴方の見る景色が見たい』
「……うるさいな、結局、お前は離れていくんじゃないか」
 あの言葉は、あのときはあまりよく分からなかったような気がしていたけれど、いつのまにかアズールの奥深くにまで浸食していたのかもしれない。そして、その言葉を投げつけた当人は涼しい顔をして去ってしまう。アズールの心臓に穴を開けておいて、その穴にアズールを落下させて、そのままジェイドは去ってしまう。
 結局そうなるのならば、あんな言葉に少しでも気を許すんじゃなかった、とアズールは歯噛みする。後悔だけが意識の表層に噴出して、そのほかの思考は全部、嵐で荒れ狂う海の、濁った水の中に落とされた。

   ◇

 あれはアズールがオーバーブロッドしたあとのことだったはずだ、とアズールは振り返る。
 泥の中に意識が沈み込んでいた。疲れた、もういやだ、全部、全部なくなってしまった。すべてが泡のように消えて、すべての外装は剥がされて、もうなにもかもが、手のひらからなくなってしまった。
 ろくでもない思考の渦がアズールを飲み込んでいく。大嵐に人間の船が飲み込まれていくように、海の底に沈み込んでしまえばもうそのまま人間の世界に帰れることがないように、このままきっと、自分も沈み込んでいくのだろうなと、
 『アズール』
 誰かの声が聞こえた。
 『悪夢でも見ているんですか?』
 よく知っている声だった。
 あまり知らない声だった。
 優しいテノールの、あまり聞いたことがないまろやかな声音。
 (…………ジェイド?)
 そっとまぶたの上を温かい体温でなぞられたような気がした。
 『貴方の悪夢を、僕が取り払えればいいのに』
 それきり声はしなくなって、安らかな沈黙が訪れる。重い重い何かがのしかかっているアズールはまぶたも口も開くことができなかったけれど、その沈黙は決して嫌なものではなかった。
 たまにジェイドはこんなふうに黙るよな、と思う。普段は、口を開けば挑発の言葉が飛び出してくる嫌味なやつなのに。
 ただひたすらに穏やかな沈黙が続く。
 海の中で、何も考えず揺蕩っているような感覚。
 あるいは、蛸壷の中にぺたりと張り付いているような感覚。
 その安らかな感覚が、底の見えない真っ暗闇の中へとアズールを誘い込む。ジェイドの声も何も聞こえない、暗い暗い安らかな孤独のさなかへ。その闇の中にアズールのすべてが落ちてしまいそうで――、
 『…………アズール』
 その声が、アズールの意識をぎりぎりのところで引っかける。
 なんだ、ジェイド。僕はもう、何も考えずに眠ってしまいたいのに、お前がうるさいせいで眠れないんだ。
 『アズール。僕、貴方のなすこと全てが、貴方と一緒にいることが、いつだってとても楽しかったんです。貴方が何かを手に入れようと、何かを実現しようと動き続けるさまを見ていることが、その望みの実現に僕が手を貸せることが、僕はとても、楽しかったんです。ですから…………ですから、ああ、そうですね』
 指先がそっとなぞられて、手の甲が何か柔らかいものに触れた。そのままぎゅっと包み込まれて、熱く湿った吐息がかかった。麻痺したような体の中で、その部分の感覚だけがやけに鮮明に感じられた。
 『僕、貴方のことが、好きです。好きでした。……でも、それはきっと、貴方と同じ方向を向かないから、これは僕だけの秘密ですね』
 心臓がどくんと跳ねた。
 『アズール、どうか、無事に目を覚まして。どうか、置いていかないで。僕はいつまでも、貴方の一番隣にいたくて、……僕はいつまでも、貴方の隣で、貴方の見る景色が見たいんです』
 聞いたことのない声音だった。
 聞いたことのない言葉だった。
 こいつは僕が聞いていることなんてちっとも気づいていやしないのだろうなと、そう思った。

   ◇

 そして、目が覚める。
 海の底で漂っているかのような感覚が次第に抜けていって、アズールがアズールの輪郭を取り戻していく。手の先だけがまだ、夢の切っ先に浸かっている。
 先ほどまで安心できる蛸壷の中のように感じていたそこは、寝心地の悪いVIPルームの椅子の上だった。どうやらいつのまにか寝てしまっていたらしかった。そう、夢を見ていた。夢だったのか現実だったのか、結局よく分からなかったままの夢を見ていた。夢を見ている自分の夢を見ていた、そう理解して――、
 (……うそつき)
 最悪の悪夢だ。
 衝動のままに、ギリギリと拳を固く握り締めた。
 かつてはよく分からない肯定、よく分からない救いのようなものであったその言葉――ジェイドに覚えていると告げることもなかったその夢は、ジェイドの心の先が知れた今となっては鋭いナイフの切っ先でしかなかった。アズールを嘲笑うかのように、ただ手の先だけが、なぜかまだ熱を持っていた。
 眉間を深く寄せて、頭を振り、椅子に身体を投げ出す。
 この感情は、とアズールは思う。
 この感情をなんと呼べばよいのだろう。
 この感情をなんと呼べば。
 さびしいだけではない。
 かなしいだけではない。
 ジェイドがアズールに目を向けなくなることが、これほどまでに恐ろしくて。ジェイドの興味を引いた対象が、うらやましくさえあって。離れたことをいつか後悔してしまえ、と、ジェイドに対して思ってしまっていて。そして何より、約束の――ジェイドからしてみれば約束でもなんでもないだろうが、約束の言葉をむげにされたことがとてつもなく腹立たしくて。――それは、つまり、突き詰めれば。
 (僕は……僕もお前に、ずっと隣にいてほしかったのに)
 急速にもやもやとしていた感情が形を掴む。
 (お前と手を重ねて、お前と一緒に同じ景色を見たかったのに)
 きっとそうだ。アズールの手を取って、アズールの見る景色を見て微笑んで、隣に立っていてほしかった。なのに、
「なんで、僕から離れていくんだよ……」
 口元をまだ熱の残る手で覆う。アズール自身の吐息が手にかかる。あの日触れた手の熱が揺れる、鮮明に覚えている夢の声の輪郭が揺れる、あのどう受け止めればいいのか分からない言葉が揺れる、それらすべてがアズールに波紋を落とす。さざ波は群れを成してアズールに襲いかかって、喉元に何かが熱くこみあげて、
「僕も、お前のことが好きなのに」
 その言葉が、塊となって落ちた。
 その感情は、海底から湧き上がるマグマが海に触れた途端固まるかのように、急速にアズールの中で確固たる形を持った。
 (――あ、…………最悪だ)
 今ここで。今ここで、この途方もなく厄介な感情の輪郭を掴むなんて。
 こんなときに自覚するなんて、間が悪いにもほどがある。このままずっと気づかなければ、どうしようもないこんな感情を抱くこともなかったのに。届かない夢を渇望することもなかったのに。――届かない夢を、叶わない望みをずっと抱えて生きていくことほど、恐ろしいことはないのに。
「はは、は、」
 乾いた笑いが漏れる。
 もう絶対に叶わない願いだった。
 ジェイドはもう、アズールとは別の道をゆくと決めたのだ。

   ◇

 ガラス越しの海が見える。故郷にはない種類の珊瑚が見える。ふらふらと泳いでいる魚が見える。
 アズールはVIPルームを抜け出して、モストロ・ラウンジの裏口にいた。あれ以上あの空間で、ジェイドのことで頭を狂わせたくなかったのだ。
 スタッフや物品用の業務用の通路にもなっているそこは、あまり凝った内装ではない。その空間の手触りが、アズールをなんとはなしに冷静にさせる。
 壁にもたれかかって、はあ、と大きく息を吐いた。
 頭が冷えると、途端に周りの情報が妙な現実味を持って襲ってきた。現実の輪郭がこれ以上なく精巧に感じられる。今ならば、遠くの珊瑚の輪郭まで、そのそばに潜んでいる魚の輪郭まで、よく見える気がした。今ならばジェイドのことも、つい先ほど自覚した自分の感情のことも、ただ遠くから切り分けて冷静に受け止めることができる気がした。
 すべての物事は移りゆく。
 それまで当たり前のように思っていたものも、当たり前のような顔をしてそこにあったものも、いつかは移りゆく。
 珊瑚はいつかその形を変え、魚はいつかその住処を変える。昼は終わり、夜は終わり、夢もいつか終わる。終わりと始まりが際限なく繰り返されるだけで、すべてのものはいつか終わるのだ。暗い暗い深海での日々はいつか終わったし、学園での生活も、いつか終わってしまう。
 (だから、今のこの感情も、いつかきっと通り過ぎる。……だから、大丈夫だ)
 きっと飲み込んでしまえる。
 きっと進んでいける。
 きっと自分はこのまま、ジェイドのことなんて綺麗に過去にしてしまって、
 (――嫌だ)
 衝動的にそう思った。
 見えた未来はなんとも飲み込みがたいもので、途方もない違和感と恐怖がアズールを襲った。
 ジェイドが隣にいないならば。ジェイドがアズールのために紅茶を入れてくれることもなくなるのだろう、ジェイドの嫌味ったらしい言葉を聞くことも、ジェイドの嘘っぽい微笑みを見ることもなくなるのだろう。あるいは――不愉快な想像が次々と脳内を駆け巡った――ジェイドがいつか、他の誰かに紅茶を入れるのだとしたら。ジェイドがいつか、夢の中でアズールに向けたあの言葉をその誰かに向けて、その誰かの手を取って、その誰かの景色を一緒に見て、笑っているのだとしたら。
 (――嫌だ)
 どうしようもないその激情が、アズールの心臓を満たした。
 それでも、ジェイドがいなくなったとして、それはそれで、いつかその形は自分に馴染んでいくのだろうという予感もあった。予感であり宣告でもあるそれは、どうしようもなく現実の摂理の形をしていて、だからこそその形がアズールは恐ろしかった。
 (僕は、ジェイドのことが、好きだった)
 もう、確固たる事実として、自分でも制御しがたいその激情が胸の中にある。
 隣にいてほしい。隣にいて、自分と同じ景色を見て、いつものように笑っていてほしい。自分を見ていてほしい。アズールに紅茶を入れて、一緒に食事をして、くだらない軽口を言い合って、取り合った手を、ずっとつないでいたい。その手をずっと、つないだまま離さないで。僕を置いていかないで。
 でも、現実はすでに、残酷な宣告をアズールに告げていたのだった。身が引きちぎれてしまいそうなほどの痛みが、アズールを襲った。――そのとき、ふと足音が響いて。
「アズール?」
 声が、聞こえた。

   ◇

「……ジェイド」
 一瞬幻覚かと疑ったその声は、いつのまにか横にいたジェイドから発せられていた。ここ最近、よく夢の中のジェイドの声がついてまわるものだから、自分は幻覚か本物かも分からなくなったらしい、そう自嘲する。
「アズール、どうしたんですか? こんなところで」
 本物のジェイドの声が、アズールの名前を呼んで、アズールの鼓膜を震わす。そのことに全身が震える。
「……別に。気分転換です。……どうしたんですか、その恰好」
 とっさのごまかしの言葉だったが、キッチン用の恰好をしているジェイドが気になったのも事実だった。ああ、と微笑む男を、ただじっと眺める。僕は、この男を、手離したくない。
「昨日お話しした、ホリデー明けの企画の試作品です。お持ち帰りできる特別感のあるデザートも、とのことでしたので、日持ちする焼き菓子を作ってみたところだったんです。先ほどちょうど出来上がったんですが……今、試食いたしますか? 後でお持ちしようかと思っていましたが」
「……ああ、そうですね。そうします」
 不思議な気持ちになった。ジェイドはアズールとは別の道に行こうとしているのに、現状モストロ・ラウンジで任されている仕事を手放すそぶりはない。任されたことは最後までやりきる性分なだけかもしれないが。
 キッチンに入ると、ぶわりと甘い香りが漂った。キッチン台には、出来上がったばかりとおぼしきクッキーが並んでいて、そのさまにアズールは目を奪われた。アイシングされたクッキーの上に花が咲いている。よく見るとそれは、乾燥させたドライフラワーのようだった。
「……きれいですね」
 その言葉は自然に出た。ジェイドが目を細めて笑う。
「気に入っていただけたようでよかったです。上に載っている花は、全部食べることができるものなんですよ」
 そういえば陸では最近、食用に育成された花を使ったスイーツが人気だということを聞いた覚えがある。なるほどこれは、人気が出るのもうなずける。
「朝植物園に行っていたと聞きましたが、このクッキーはそのあと作ったんですか?」
「ええ、植物園へは、この試作品の材料を取りに行っていたんです。……どうぞ」
 ジェイドがクッキーのうちのいくらかを、試食用の小皿により分けて差し出してきた。一瞬ジェイドのキノコ趣味のことが頭をよぎったが、ジェイドはモストロ・ラウンジ関係ではこちらの信頼を損なうようなことはしないので、まあ大丈夫だろう。まかないや趣味の料理になると話は別だが。
 小皿に乗っているうちの一つ、赤色の花弁のものを手に取って口の中に入れる。さくりとした軽い触感のそれは、舌触りとしてかすかに花の感触が感じられる。モストロ・ラウンジで出すものとして、申し分のない出来だった。
「…………おいしい。この花は……薔薇ですか?」
「ええ。いくつかの種類の薔薇を、ハーツラビュルの方から分けていただきました。他の花はいろいろですね、分けていただいたものもあれば、僕が育てたものもあります。……ああ、それと、先日仕入れた茶葉に、また別の薔薇をブレンドしてみたんです。今は向こうにありますが……」
「へえ、合わせて売るとよさそうです。……さすがですね」
 先ほどまでの激情が、どうにかして引き留められないかという感情がみるみるとしぼんでいく。ジェイドが陸の植物やキノコに傾倒しているのは知っていた。だからアズールは、ジェイドの趣味をジェイドが示す範囲で知ってはいたけれど、それ以上に興味を示したことはあまりなかったように思う。アズールはジェイドのことをまだよく知っている方だと思っているけれど、きっとよく知らないままの側面もあるのだろう。だから、そのよく知らないジェイドが、アズール以上に興味を惹かれる何かを見つけたことだって当然なのかもしれない。そういえばジェイドからは薔薇の王国に行きたいと聞いただけで、具体的な進学先や将来の計画は聞いていない。ジェイドのことだからいくらか算段はつけているのだろうが。
「……お前、結局卒業後はどうしたいんですか」
 ふとその問いが漏れ出て、――ああ、聞いた。聞いてしまった。貴方には関係のないことでしょう、と突き返される未来が見える。
「え?」
 ジェイドは意外なことを問われたとでもいうような顔をして眉を上げた。
「どう、と言われましても……?」
「進路計画の話ですよ。具体的には、どこをどう目指しているんですか。大学に行くのか研究所に行くのか、研究したい対象が山なのか植物なのかキノコなのか知りませんが、何かしらやりたいことがあるんでしょう。そのためには何かしら、どこに行きたい、という希望があるものでしょう? それとも、まだ検討中なんですか?」
 ジェイドは目を丸く見開いたまましばらく沈黙して、ややあって口を開いて――アズールにとって、決定的な一言を口にした。
「アズール、もしかして誤解されているのかもしれませんが、僕が行きたいと言ったのは、……そうですね、旅行の話ですよ」
「……は?」
「ですから、別に薔薇の王国に進学したり、移住したりしたいと考えているわけではありません。ただ、卒業後に薔薇の王国に旅をしてみたい、という意味で言ったのですが……」
「……え。じゃあ、卒業後は、……どうするんですか」
 告げられた言葉に混乱して、ほうけてジェイドを見つめた。ジェイドはどこか硬い表情でこちらを見つめる。
「……卒業後は、僕、貴方のお手伝いをするつもりでしたが。貴方も当然、そのつもりだと」
「……え」
「…………いえ、貴方がどうしても嫌だというなら考え直しますが。……僕は初めからそのつもりでしたよ。貴方は、僕の存在を数えていないようでしたが」
「だって、お前が、薔薇の王国に行きたいとかいうから……」
「来ないと思ったんですか? そのつい昨日も、モストロ・ラウンジの今後の展開について話し合ったばかりではないですか」
「それは、そうですが」
 しばらく無言で見つめ合って、それがアズールの思い込みでしかなかったことに気づく。ジェイドの瞳は驚きで丸く見開かれていて、かすかに眉間にしわが寄せられていた。
「アズール、ひどいです。僕をそんなにも薄情なウツボだと思っていたなんて」
 軽口を叩かれながら、わりと真剣な瞳で責められる。あ、これは面倒くさいやつだ、と察した。面倒くさく怒っている。
「……だってお前、あんなにも熱心に語るものだから。とうとう本格的に趣味について勉強したいのかと、思いました」
「ええ、いえもちろん、薔薇の王国で最新の知見を得たいというのも事実ですが……、最先端の植物を、もしモストロ・ラウンジで扱うことができれば、アズールにとっても得でしょう?」
「……は」
「既に試験的に売り出されていても、世間に認知されていない植物はたくさんありますし、もしくは今はまだ研究段階でも、情報を仕入れておいて損はないかと思います。モストロ・ラウンジの話題づくりにもなるのではないかと……アズール?」
 一気に体中の力が抜けて、はああと大きなため息をつきたいのを抑えた。なんてことはない、ジェイドはジェイドなりにアズールとの将来を真面目に考えていて、なおかつ自身の趣味を両立させる道を見つけていた、ということだ。ジェイドは別に、アズールの隣からいなくなる予定はなかったということだ。
「……モストロ・ラウンジのため、ですか」
「ええ。もしかしてそれで昨日は、あんなに反応が悪かったんですか? 僕は、貴方が全然興味を持ってくれていないのだと思っていました」
「……そうです。そうですよ。はあー……それで僕は今日一日、ずっと、なんにも手につかなくて……ああ……悩んで損した」
 昨日からの心臓に悪い痛みを取り消してほしい、と思いつつアズールは顔を片手で覆う。どうしようもない歓喜と、こちらだけが振り回されて納得のいかないような憤慨と、こんなものを明るみに出してしまった羞恥で訳の分からない表情をしている自覚がある。
 ふと、笑い声が聞こえた。む、としてそちらを見ると、ジェイドが珍しく歯を見せて笑っていたものだから――珍しく無防備に近い表情だったから、アズールはついついそちらを凝視した。
「なんです? ……別に笑うことでもないだろう」
「おや、すみません。いえ、存外貴方の身の内に置かれているのだなと」
 くすりと笑うその笑みに、その笑みがこちらを見ているという事実に心臓がどきりと跳ねる。はあ。なんでこんなウツボのことが、僕は好き……好き、好きなんだ。おかしいだろう。
 好きだと自覚したばかりの感情はとめどなくあふれてくる。こいつはこういうことを知らないのだろうなと思った。うらやましい。この感情に狂わされているのはアズールだけで、アズールだけが、ジェイドがいつか傍から離れるのではないかと恐れなければならない。
「お前って、本当に僕についてくる以上にやりたいこと、ないんですか。キノコの研究とか……」
「おや。キノコは確かに、面白いですが……本格的に研究して、仕事にしようとは思いませんね」
「……そうなんですか?」
「ええ、キノコより貴方を見ている方が面白いので」
 そのどうしようもなく欲しかった言葉を得て、アズールは本当におかしくなったようだった。ジェイドが苦笑する。
「アズール、貴方が僕の評価を気にされるなんて、珍しいですね。明日は隕石でも降ってくるんでしょうか」
「……別に。せっかくの機会なので、お前の意思確認でもしておこうかと思っただけです」
 湧き上がった形容しがたい感情をごまかすために、ついいつものような揶揄が口をついて出た。
「キノコが僕より面白くなったら、戻ってこなくていいですからね」
「アズール、僕は、」
 ジェイドがふと表情をなくす。無表情に近いジェイドは、また普段とは違う怜悧な美しさが宿る。
「僕は、ずっと、貴方のやることなすことを見ていたいと思っていますよ。貴方は本当に面白いので」
 アズールにそう告げて、ジェイドはふわりと微笑んだ。穏やかな笑みだった。それが珍しくてついつい凝視してしまえば、ジェイドはついと視線を逸らして、キッチン台の上のクッキーを一つ手に取る。
「……そこまで見つめられると照れてしまいますね。嘘かと疑われてしまうかもしれませんが、ええ、本心ですよ」
 その表情に、その言葉に、思ってもみなかった衝動が突き抜けた。
「僕も、お前がずっと、そばにいてくれたら、と思いました」
 すました顔で青い花弁のクッキーを咀嚼していたジェイドが、目を丸くしてこちらをふと見る。
「……ええ、そう思ってくれてうれしいです。僕も、一緒にいたいですよ」
 その瞳は意外な驚きを映していて、珍しく本当に嬉しそうに目元が緩んでいる。だけれども、違う。違うのだ。本当に伝えたい言葉は、本当に胸の内からあふれる言葉は、これではないのだ。そう、例えば。
 『僕、貴方のことが、好きです。好きでした。……でも、それはきっと、貴方と同じ方向を向かないから、これは僕だけの秘密ですね』
 あの告白は、どういう意味だったのだろう。好きというのは、どういう思いからあふれた言葉だったのだろう。好きでしたって、今は好きじゃないってことか。同じ方向を向かないって、どういうことだ。
 分からない。何もかもは、口にしてみなければ、言葉にして波紋を起こしてしまわなければ、分からないのかもしれない。
「僕、お前のことが、好きです。……お前のとは、同じではないかもしれませんが」
 その言葉を口に出すと、なんとなくそう言ってしまう気持ちが分かったような気がした。なんとなく分かってしまったということは――どうなのだろう、そう断定するにはジェイドの本心を知らなさすぎたし、それこそお互いがとんでもなく違う方向を向いているのかもしれなかった。
「……は、」
 ジェイドは手を止めて硬直した。口を半開きにしたまま、こちらを凝視して、そしてわずかに視線を逸らす。その様子に、とてつもなく変なことを言ってしまったかのような後悔が押し寄せて、アズールも視線をついと逸らした。言い訳のように言葉を連ねる。
「……別に。ちょっと思って、ちょっと口に出しただけです。関係は変えなくていい。このままで」
 そうは言ったけれど、そうはいかないことをアズールは理解していた。ジェイドとアズールの気持ちが違ったのなら、あるいはあれが本当にただの夢、ただの幻覚だったのなら、ジェイドがアズールについてくるという未来さえも結局なかったことになるかもしれない。あるいは恋人関係というものがジェイドの「面白いこと」に引っかかるかもしれなかったけれども、よしんばそうだとして、アズールはそれに乗る気はなかった。アズールはジェイドのことが好きだけれど、ジェイドの興味本位の遊びに付き合って、心をずたずたにされたくはない。
 いずれにせよ、もうジェイドとの関係がかつてのようにはならないことは確実だった。関係性を決定的に変えてしまうほどの恐ろしい言葉を投げてしまったことを今さら自覚して、ついと背筋が冷たくなる。

 それにしても応答がない。アズールはそろりと、ジェイドの顔を見やる。
 目は丸く見開かれていた。
 頬はぶわりと赤らんでいた。
 口は無防備に小さく開いていた。
 泳ぎきっていた目線が、ふとこちらと合う。
 あ、と思った瞬間。
「あの、……僕、試作の茶葉を取ってきますね」
 そう言い捨てて、ジェイドはかなりの早歩きで入り口までおもむき、やや粗雑に扉を閉めて、姿を消した。
「は!? ジェイド!?」
 閉め切れなかったままの扉が中途半端に開いていた。

   ◇

 ただ一人、ジェイドはガラス越しの海の横に立ち尽くす。
 キッチンから出て、そこで一度立ち止まって。そうして、部屋の中から「ジェイド」と呼ぶ声が聞こえたものだから、ジェイドはそこからも逃げ出してきてしまった。
 アズールが先ほどまで立ち尽くしていた裏口に、ジェイドは今立ち尽くしている。海の生き物たちだけがただこちらをのぞいている。
 (……アズールが、僕のことを、好きだと)
 またぶわりと、全身が熱くなった。心臓がどくどくと、常よりも数段激しく波打っているのが分かる。アズールの顔が、アズールの声がジェイドの体に焼きついていて、あの熱を持った瞳が目の前に揺れて、あの言葉が耳の中で何度も何度も響いて、もうどうしようもなくなる。
 『好きです』
 好きです、だなんて。そんなことを言われても。そんなことを、今さら、言われても。ジェイドは途方に暮れて、深々とため息をついた。

   ◇

 流氷が割れる轟音のような衝撃だった。
 アズールにはじめて興味を惹かれたときの衝撃を、ジェイドはいつまでも覚えている。
 ただひたすら、他の何にも目を向けず這い上がる姿が、その瞳に映ったマグマのように燃え盛る意志が、他の何よりも輝いて見えた。今まで見たどんなものよりもこうこうと光を放って、今までつまらないと思っていた物事さえ、彼の目を通してみると色づいたかのように見えた。もっと見ていたい。もっと話してみたい。もっと近づいてみたい。そしてもっと、――自分でもよく分からない感情が、ジェイドの胸を占めた。
 彼と一緒にいると、とても楽しくて、胸が高鳴る。けれども。
 (この感情は、何なのだろう)
 この感情は。
 自分でも決してよく分かっているわけではないこの感情は。
 会いたいと願い、話が聞きたいと願い、触れたいと願い、触れることができるようになったらもっと、もっととその先を望む、この貪欲な感情は。
 自分には無縁だと思っていた、物語の筋でよく目にするような、この感情は。
 (この感情は、恋なのだろうか)
 そうなのかもしれない。
 そうなのかもしれない、と思うたびに、得体の知れない後ろめたさがもやもやとジェイドを覆った。
「ジェイド? ……ねえ、最近変だね。どしたの?」
「……フロイド。いいえ、なんでも」
「そ? ねー、はやくタコちゃんのとこ行こ。……あ、」
 流氷が来る時期だねえ、とフロイドが笑う。
 後ろめたさは流氷のように絶えず流れてきては、どこにでもまとわりついてきて、いつだって自分はそれにぶつかっている。
 最近の自分はおかしいのだと思う。
 例えば、アズールの蛸足と自分の尾びれと絡めてみたかった。あのいつだってペンを握っている指先に、自分の指先で触れてみたかった。もしそうしたら、自分はどう感じるのかも知りたかったし、アズールがどう反応するかも見てみたかった。想像する、その青い瞳と自分の瞳を合わせて、蛸足と尾びれをすり寄せて、彼の手を取ってその指先に口づけて、貴方に恋をしているんですと告げたら。アズールはそれを、
 ――アズールはそれを冷たく振り払うのだろうな、と思った。
 ――そして、自分のその感情が恐ろしくなって、その日はずっと自室の隅で息を潜めていた。
 (でも、どうなのだろう。もしこれが恋なのだとして、僕はこの恋を叶えたいのだろうか)
 それは何か、違う気がする。
 例えば、最近増えてきた色めいた噂話のように、どこかの人魚とどこかの人魚のように大人の付き合いをしたいだなんて思うのだろうか。それは自分の願いとは、ずれているのではないだろうか。アズールがジェイドだけを見るようになったら、確かに嬉しいのかもしれない――彼の興味を引けるだけの人魚になったということだし――けれども、それはそれで、やはりどこか違うのではないだろうか。自分が焦がれたアズールとは。
 (何より、そもそもアズールはこちらを見ないのだし)
 そう考えると気が楽になった。
 ジェイドはただ、アズールを見ていることが楽しいのだ。それに加えて、アズールの望みをジェイドが手伝うことができるのならば、なおのこと言うことはなくて、その代わりとなるようなものは何一つとしてない。アズールが手を伸ばせば届く距離にいることを許されている、そのことこそが、何よりも手放したくないと感じてしまう。これがジェイドの感情の形なのだろう。
 だから、このよく分からない欲望は水槽の中に閉じ込めてしまって、見ないようにしてきた。――見ないようにしてきたから、今さらそれを見ろと言われても、その水槽の中のものがどうなっているのかなんて、自分でもうまく輪郭は掴めていなかった。

   ◇

 だというのに。
 (……アズールが、僕のことを、好き)
 喜ぶべきなのだろうか。
 過去の自分であれば喜んだのだろうか。
 少なくとも今のジェイドはちっともそんな気分にはならなくて、どうしてこんなにも感情がぐちゃぐちゃなのだろうということさえ分からなかった。
 (アズールが、僕のことを、好き)
 何か歓喜するような自分も、確かにいる。
 それでも、強烈に否定してしまいたい自分もいる。
 そもそも、アズールのその好きとは、どういう好きなのだろうか。特に問いただすこともなくその場を後にしてきてしまったけれど、それは本当に自分と同じ感情なのだろうか。そもそも自分は果たして、アズールのことが好きなのだろうか。
 自分の感情の水槽を久しぶりに開けて、見つめ直す。アズールとその足を絡めたいと思う。その手に触れて、口づけたいと思う。その瞳が自分だけを見てくれたらとても幸福だと思う。直視するのも嫌な願望がジェイドを襲った。――それでも、アズールにはやはり、他のことに目を向けていてほしいのだった。
 決めた、断ってしまおう。そうして元の関係に戻ろう。衝動のあまり飛び出してきてしまったけれど、よくよく思い返せば、アズールも別に関係を変えることは求めないというようなことを言っていたのではなかったか。
 何食わぬ顔で戻り、何食わぬ顔で了承し、何食わぬ顔で元の関係性に戻る。何ごともなかったかのように。
 きっと、できる。
「……っ、」
 そう決意したとき、ガラスの海に、アズールの影が差した。
 逃げようと決意する猶予もなく、その影はジェイドの腕をとらえてしまった。

   ◇

「ジェイド、」
 アズールの声は熱く、ひび割れていた。
 息せき切った吐息は熱をともしていた。
 つかまれた腕から、じんじんと焼けるような熱が伝わった。
「お前、なんでっ、逃げた……」
 なんで。その問いはさっき掴んだ輪郭をさらに確固なものにして――ああ。もっと遅く来てくれればよかったのに。あるいは、自分をこのまま放置してくれれば。
 放置してほしかった。
「アズール、その」
 出した声はどうしようもなく震えて熱を帯びていて、そのことに動揺してそれ以上声を出せなかった。動揺が伝わっただろうなと思う。そのことが、途方もなく嫌だなと思う。
 アズールには綺麗な仮面越しに自分を見ていてほしかった。
「ジェイド」
 逃げようもない空間で、アズールの顔が、ずい、と近づいた。襟元をぐいとつかまれて、顔を引き寄せられる。アズールの顔が、お互いの吐息が届きそうなほど、あまりの近さに呼吸さえためらってしまいそうなほど近くにある。
「好きです」
 破壊的なその一言を、再度口にして。
「お前は、どうなんだ」
「……どう、って、」
 あまりにも確信的な言葉だった。すべてを見透かされているような気になった。すべてをさらけ出せと、その燃え盛る瞳が告げていた。
「…………ひどい」
 出てきたのは、その一言だった。
「僕は……、アズール、僕はずっと、そういう感情を見ないようにしてきたのに。ひどい。ひどいです、アズール、貴方はその一言で、その一言だけで、僕をこうも揺るがしてしまえるのですね」
 だからつまり、と物言いたげな瞳がさらにジェイドをのぞきこんだものだから、ジェイドは観念して、その言葉を口にした。
「……好きですよ。アズール、僕も、貴方のことが好きです」

   ◇

 歓喜がぶわりと、アズールの体中を駆け巡った。大物顧客との契約を取ったとき以上の歓喜だった。けれども往生際の悪いウツボは、やはり素直にその喜びに浸らせてはくれないのだった。
「でもきっと、貴方の好きという感情と、僕の好きという感情は違いますよ」
 アズールをなだめるかのように告げられた、その言葉に眉を寄せる。本当に面倒くさいやつだな、と思う。でもアズールも同じことで悩んでいたのだった。となると結局同じところに行きつくのかもしれなくて、そう考えるとそれほど大した悩みではないという気もしてきた。
「……ええ。ええ、違うのかもしれませんね。僕も違うと思います」
 露骨にほっとして、しかし分かりにくくショックを噛み締めているジェイドがいる。本当に面倒くさくて本当に腹立たしい。それでも、好きだ。好きなのだ。
「……アズールの好きは、どういう好きなんですか?」
 そうですね、とアズールは淡々と答えた。この面倒くさい男の思考に付き合うのが至極どうでもよくなったというのもある。
「こういうことがしたいです、お前と」
 中途半端につかんだままだった腕をほどく。すす、と逃げようとする手を再度とらえて、今度は指先同士を絡めて握る。ジェイドの指先が固く強張った気配がしたが、気にしないことにした。そういえばこいつの指にしっかりと触れたことはなかったように思えて、しかし嫌なものではなかった。相手に触れる表面積が大きいから世の恋人たちはこうするのだろうな、と新たな発見をする。そうして、先ほどから面白い表情ばかりをしている男の顔をのぞきこむ。
「……顔、真っ赤ですよ。ジェイド」
「…………うるさいです」
 そっと指先をなぞる。そのたびにジェイドが動揺する気配がするので、少し楽しくなってきてしまった。この男が動揺することは滅多にない。
「それで。こういうことをしたい僕の気持ちは、お前のものと一緒ですか?」
「…………」
「どうなんだ」
「………………一緒、かもしれませんね」
 ついついおかしくなって、ふふ、と笑う。真っ赤になったジェイドに睨みつけられたけれど、全く怖くはなかった。
「お前の話を聞いて、思ったんです。お前に、隣にいてほしい。僕の隣で、僕の見る景色を、一緒に見てほしい。ねえ、どうですか、ジェイド。この僕の望みを、叶えてはくれませんか。僕の恋人に、なってみてはくれませんか」
 口を中途半端に開いているジェイドをじっと見つめる。ジェイドは、視線を泳がせて、口の開閉を繰り返して、そして。
「…………し、」
「し?」
「試用期間からで、いかがですか」
 つい声を上げて笑ってしまった。ちょっと、アズール、と抗議するジェイドの声は、はじめて聞くような温度を持っている。それが何故か、とてつもなくうれしいことであるかのように感じられる。
「ええ、いいですよ。試用期間から、始めましょう。よろしくお願いしますね?」
「……はい」
 ジェイドはクラゲの鳴くような声で、よろしくお願いしますと答えた。
 流氷のない海が見守る中、二人の吐息は近づいて、温度はただひとつになった。